イビチャ・オシムと築いた「横」の関係
日本メディアと海外メディアの「差」
新刊「急いてはいけない」を上梓したオシム氏。訳者が語るその素顔
■衝撃だったミルチェノビッチの姿勢
――メディアにいる側としてはなかなか難しい関係です。
田村 私も最初はそうでした。原体験があります。1993年のドーハに日本代表の取材に行っていたとき、開催国であるアメリカの代表監督だったボラ・ミルチェノビッチが視察に来ていて近くのシェラトンホテルに泊まっていた。そのことを聞いた私は、ボラの話を聞きたいと思い、ボラと同じホテルに宿泊していたフランスフットボール誌のヴァンサン・マシュノー記者に仲介をお願いしました。彼は快諾してボラに話をつけてくれ、プールサイドにいるボラのところへ私を案内してくれました。
ちなみにボラは、その年のキリンカップにアメリカ代表を率いて来日しており、そのときすでにインタビューをしていたし、かなり親しくなってもいました。ただ、かなり敬意を持って接していました。なにしろこちらは、取材をはじめたばかりのペーペーでしたから。彼のようなビッグネームに対して、どんな距離を保ってどう接していいのかもよくわからなかった。
驚いたのは、ヴァンサンがボラとまったくのタメ口をきいていたことです。しかもヴァンサンの言うこと――フランスやヨーロッパのサッカー事情の分析に、ボラが真剣に耳を傾けている。年齢は関係ない、お互いが対等な関係がとても新鮮でしたし、こういう関係こそがヨーロッパや世界での正当なコミュニケーションなのだと思いました。
ですから、オシムに対しても、とてもすごい人だということは分かっているけれど、はじめから敬称ではなく「チュトワイエ(編集部注:あなたを指すフランス語)」で話をしましたし、オシム自身もそれが当たり前だと思っていました。リスペクトとはまた別の問題なんです。
――なるほど。では具体的にオシム氏と長く話しをするようになったのはいつ頃からなのでしょうか。
田村 ジェフから代表監督時代までは、試合や練習で会えば話をし、メディアがあれば単独インタビューをした、という関係でした。本当に1対1で長く話しをするようになったのは、代表監督を退いてからです。
とっかかりとなったのは、ユーロが開催された2008年です。雑誌『Number』で、ユーロについての特集を組むことになり、オシムに大会を総括してもらうことになりました。だから大会が終わった後も私はウィーンに残っていたのですが、話を聞くことはできませんでした。体調を崩して入院してしまったからです。しばらく待ちましたが、いったん仕切り直ししようということになり、私は手紙をシュトルム・グラーツに託して帰国しました。
実際に会えたのはその9月のことです。インタビューのテーマは日本代表について。私にはひとつの思いがありました。すでに「オシムの言葉」などでその独特の言い回しや哲学は日本中に知れわたっていましたが、なぜかサッカーに関する言葉は少なかった。まあ、今回の本(『急いてはいけない』)もそうですが(笑)……、だからこそ、私はオシムにサッカーの話を聞きたかった。彼が本当に話したいのはサッカーについてではないかと思ったからです。
そこで、最初のテーマを「日本代表をどうしていきたかったのか」に決めました。ただ、このインタビューは、とても緊張して……大失敗でした。(第三回に続く)
第一回:数百時間にわたるオシムとの対話。「class」だったオシムという男の素顔
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